作品について


からむしのこえ

photo: Daisuke Bundo

草の糸がつなぐ人と人、時間と場所。福島県の昭和村には数百年にわたる営みを受け継ぐ人たちがいます。「からむし」という植物を育て、繊維をとって糸にし、布を織るという暮らし。奥会津の山あいにある小さな村は、厳しくも豊かな自然のなかで、からむしを栽培してきました。その繊維は新潟県に出荷され、最も上質な布として知られる越後上布や小千谷縮の原材料ともなっています。

なぜ、どのようにして受け継がれてきたのか、受け継がれてゆくのか。これらの問いの答えは、からむしにたずさわる人々の無数の行ないや思いのなかにあるのだと思います。『からむしのこえ』は、その一端を紹介するものです。

春夏秋冬、季節の変化に応じて栽培から織りへと進む工程では、長い歳月をかけて洗練された技が生かされ、伝えられます。数ある工程には、各自の作業もあれば仲間との作業もあります。そこでは、言葉にならない技だけではなく、技をささえる言葉も受け継がれてゆきます。また、からむしを育てるなかで、成長の様子をうかがうことを「からむしの声を聞く」と言うこともあるそうです。耳を傾けるような姿勢、耳を澄ませるような関わり方があるということです。

『からむしのこえ』は、からむしによって導かれる人々の行為や、からむしによって語らされる人々の言葉を記録した映画であるともいえます。その喜びやとまどいに触れることで、映画を見る方々が、自分自身の声にも耳を澄ませ、これからの暮らしを考えるきっかけを得ることを願っています。

分藤大翼

からむしのこえ

photo: Daisuke Bundo

概要

原題:

からむしのこえ

時間:

92分

制作年:

2019年

監督:

分藤大翼

撮影、録音:

春日 聡、分藤大翼

編集:

分藤大翼

整音:

岡部 潔

題字:

華雪

制作:

大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 国立歴史民俗博物館

からむしのこえ

photo: Daisuke Bundo

こえにうつる村の記憶

分藤大翼

 『からむしのこえ』という映画は、撮ることのできた光景から成り立っています。それは言うまでもないことですが、この映画において、撮ることのできなかった光景については、制作者として言うべきことがあると感じています。これから、主な事柄を3つ挙げたいと思います。

 撮ることのできなかった光景の一つ目は、「からむしの根」です。からむしの栽培は、根を苗として植えるところから始まります。五月の終わりの頃、根を掘り出し、良い苗になる部分だけを選別し15〜20 cmに切り分け、よく耕した畑に溝を作り、15 cm間隔で並べて土をかけます。一年目の作業には、雑草を抑える作業や、葉の裏が白い「野カラムシ」を取り除き、葉の裏が緑色の「カラムシ」を残す作業などがあります。けれども私たちは、この工程を撮影することができませんでした。芽が出なくなってくると、植え替えをおこなうということなのですが、撮影の期間中に、そのような機会に巡り合うことがありませんでした。

 撮影をおこなっている間は、あれもこれも大事なことは全て撮影したいと、つい思ってしまいます。昭和村の方々は、こちらの身勝手な思いを汲んで、無理なお願いにもずいぶん応じてくださいました。雨の日に撮影したことを気遣って、晴れの日に、もう一度撮影に応じてくださった方や、暑い時節にはおこなわない作業を、汗をかきながら見せてくださった方もいました。このようなことは挙げればきりがなく、お詫びとお礼を書き連ねることはいくらでもできます。これはつまり、人の都合でなんとかなることには、ほとんど応じていただいたということだと思います。そして、そこからひるがえって分かることは、からむしの都合は、人につけられるものではない、人がつけるものではないということです。

 制作において頼りにした冊子の一つに『からむし栽培の手引き 副読本』(編集:昭和村からむし生産技術保存協会)があります。そのコラムの一節に次のような言葉が記されています。「自分の都合や決まったやり方ではなく、からむしの生長に合わせてきたからこそ、高品質なからむしを生産し続けることができた」と。そして、からむしの生長に合わせて作業をすることについて、「からむしの声を聞いてやれ」という、ある古老の言葉が紹介されています。『からむしのこえ』に込めたテーマの一つは、この「からむしの声を聞く」という自然との向き合い方、からむしと共にあり、からむしを育み、からむしに育まれるという生き方が、昭和村にはあるということです。そのことを、からむしの根を撮影することができなかったという経験から、私は学びました。

 撮ることのできなかった光景の二つ目は、「お茶飲み」の様子です。お茶飲みというのは休息のことで、作業の合間に、一緒に作業をしている人たちが集まって、お茶を飲みながら歓談する時間です。私もどれだけ御馳走になったか分かりません。美味しい漬物や揚げたてのおかきを楽しみに撮影に伺っていたことも、今であれば白状してもよいのかもしれません。また、その場で伺う話がとても面白く、映画づくりのヒントが得られることもあったのですが、その場面はまともに撮影できませんでした。それが撮影を断られたからなのか、その場の雰囲気から、こちらが遠慮したのか、おそらく両方だと思います。お茶飲みの場にカメラがあると、寛げないのは当然です。その時間の大切さが分かるにつれて、こちらも撮影する気がなくなっていったのだと思います。

 厳密にいうと、映画のなかで一か所だけ、お茶飲みの様子を遠くから撮った映像を使っています。その映像は、撮影の初期の頃に撮ったものです。他には、織姫さんたちの指導員を務めていた「さとばあ、とうばあ」が話してくれている場面が、お茶飲みの雰囲気をあらわしているといえます。その場面で、さとばあは「一服の時間」のことも話してくれています。そして、同じ場面に重ねられた織姫さんの語りにもある通り、和やかな人間関係のなかで、からむしの文化が村の暮らしの一部として伝えられる、ということが起こってきたのだと思います。もちろん、からむしの文化が厳しい状況のなかで磨き抜かれてきた経緯も忘れてはならないことだと思います。けれども、私が撮影を通じて感じたことは、からむしだけではなく、お茶飲みの時間に作られるような、人と人との関係もとても大切にされているということでした。

 撮ることのできなかった光景の三つ目は、「失敗」の様子です。正直に言うなら、これは撮れてしまったけれども、編集で削除したため、映画としては残らない光景になったと言うべきかもしれません。実際には、作業の現場では様々な失敗や間違いが起こっていました。私にとって、その多くは試写会を通じて削除や再編集を依頼されて、はじめて分かるようなものでした。出演していただいた方々に、それぞれの場面を確認していただく過程を経て、現場で生じていた不具合は、編集作業によって修正されていきました。

 『からむしのこえ』の制作は、からむしに関わる技術を記録することを目的として進められました。したがって、「成功」している作業だけを残すことが前提となっていました。そのため、撮影に応じてくださった方々は、ずいぶん緊張して作業をされたと伺っています。けっして普段通りではなかったということです。また、撮影や録音もうまくいかないことがありました。編集もうまくいっているかどうか、これらは今となっては映画を御覧になる方々の判断に委ねるほかありません。私たちが言えることは、最善を尽くしました、という当たり前のことだけです。

 失敗や間違いを映画として残せなかったことを私が気にしている理由は、それらを修正・修復する過程に、大切な姿があると感じているからです。作業の現場では、失敗しても、落ち着いてやり直す、みんなで協力してなんとかするということが、ごく自然におこなわれていました。そのような場面に遭遇するたびに、からむし文化を継承するうえでは、むしろ失敗や間違いに対処する姿を記録する方が役に立つのではないかという思いすら抱きました。ある織姫さんからは、「失敗しないと覚えられないものだから、なんどでも失敗するように教わった」という話を伺ったこともあります。映画では、協力して作業する姿として、それとなく描いたり、「失敗しても、大丈夫」という語りを使わせていただいたりすることで、そのしなやかな力強さを映画のなかに留めようと試みました。

 最後にもう一つだけ付け加えたいと思います。『からむしのこえ』には、からむしにたずさわる多くの方々の声が収められています。ただし、話している時の顔はほとんど映し出されることがありません。いわゆるインタビューの撮影をおこなったのは、実にお一人だけです。他の方々の場合は、作業の撮影をおこなうなかで話してくださったり、撮影した映像を視聴していただいて、お話しだけを録音させていただいたり、多くはインタビューの録音のみをお願いして、聞かせていただいたお話しを別の機会に撮影した映像と組み合わせる形で、それぞれのシーンを構成してゆきました。

 『からむしのこえ』は、制作の初期の段階から、からむしに関わる技だけではなく、たずさわっている方々の思いを描くことを目標としていました。けれども、思いを語っていただくことは容易なことではありません。制作の終盤になって、ようやくお願いできる状況になり、録音させていただくことができました。けれども、同時に撮影をお願いする気にはなれませんでした。その理由は、カメラを気にせずに話していただきたかったということと、一般的なインタビューのシーンにはしたくなかったということがありました。

 結果的に、誰が話しているのかがはっきりしないシーンがいくつもある映画になりました。それはこの映画の成り立ちであるとともに、そこには「からむしのこえとは、誰の声か?」という主題が表れていると言えます。それぞれのシーンの声の主は、そのシーンに登場している方です。一つ一つの語りは、登場する一人一人の方のものです。けれども、それらの語りは私が綿密に編集しています。編集した語りを御本人に承認していただいたものが「映画の語り」となっているのです。

 語りの録音や編集を通じて感じたこと、大切にしたことがあります。それは、語り手の方々の「ひかえめな調子」です。自信満々に語る方は、一人もいませんでした。自分に話せることを慎重に探りながら、自分のことよりも、恩のある方やからむしの話をする時の方が、生き生きと話されるという印象を受けました。その印象をもとに編集をおこなった結果、「受け継いでいること」についての語りが多くを占めることになりました。それは過去・現在・未来という時間の流れにおける継承の話しでもありますし、からむしに関わる作業の流れの話しでもあります。「今の自分の前後には必ず誰かがいて、自分はつなぐ立場にある」という感じ、あるいは「一人の語り手は、決して一人では語っていない」感じと言えばいいでしょうか。出演者の方々の行ないや語りは、一人一人のものであるとともに、「昭和村の記憶」を受け継ぐ技術や言葉になっていると私には思えます。言い換えると、出演者の方々は「昭和村の記憶」の一部を担っており、身をもって村の記憶を更新されていると私には思えるのです。

 『からむしのこえ』という題名には、からむしについて語られてきた言葉、交わされる言葉、これから語られる言葉が響きあう機会を生み出してほしいという願いを込めています。いま生きている人だけではなく、亡くなった人にも、これから生まれる人にも届くことを切に願っています。そして映画は、上映されるたびに、その可能性を私たちに開いてくれることでしょう。

 この映画に目を凝らし、耳を傾けることで、自分自身を見つめ直し、自分の声に耳を澄ませてみること。広くこれからのものづくりや、ものづくりと関わる生き方を語りあう機会が、『からむしのこえ』をきっかけに、一つでも多く作られてゆくことを期待しています。

からむしのこえ

photo: Akira Kasuga

自然(じねん)と生きる声と手を伝える

春日 聡

 ここでは、カメラやマイクの後ろ側にいた立場から記しておきたい。

 私は、興味の向くままに音を探すサウンドハンターである。さまざまな音―楽器や歌声のみならず、環境の音、身の回りの物音などに耳を澄まし、それぞれの響きを楽しみ、録音する。時にはそれらを素材として編み上げ、作品にすることを続けている。

 そして、1990年よりこれまで、日本列島各地、バリ島を中心としたインドネシア各地、ネパールなどで、祭祀儀礼や民俗芸能、祝祭空間を対象に、無形文化の伝承と変容についてフィールドワークを続けてきた。そのなかで基本となる取り組みは、記録映像の撮影・録音である。

 私がこの映画制作への参加を求められた時点で、からむしのことはほとんど何も知らなかった。

 昭和村のからむし生産にかかわる人びとの間で、「からむしの声を聴く」という言い回しがあることを分藤氏から聴いた。それが映画のタイトルの候補になっていったのは、撮影を始めてからしばらく経ったあとだったように記憶している。ただ、当初から私たちは、人びとの語り・声を大事にして行くことで一致していた。この映画の姿は、静けさのなかで人びとが時折つぶやくようなサウンドトラックを中心にするのが相応しいのではないかと考えたのだった。人びとの語りにあらわれるやさしい声音や訛りは、何よりも魅力的だったのだ。

 当初、もうひとつ承知していたことは、伝承技術の作り手を記録する映画の制作だということだった。

 作り手は、いつもどこでも真剣である。私は、美術大学の学部と大学院の6年間、工芸の研究室に在籍し、鍛金を中心とした金工技法を学んだ。親しい友人には染織工芸を志すものも多かった。そうしたなか、幾多のプロフェッショナルの現場にも立ち会い、もの(素材)の声を聴き、ものとの対話を通してひとつの作品に仕上げてゆく楽しさと厳しさを皮膚感覚で学んで行った。だから、からむしの声を聴く、という言い回しには、即座になじみ深いものを感じた。

 映画の作り手も同様に真剣でなければ、到底、からむしの作り手の人びとが納得するものはできないはずだ。作り手同士、見えないところで火花を散らす関係をつくるのだ。だが無論それが撮影の過程で表立って見えてはいけないし、被撮影者に感じ取られてもいけない。さらにそのような感触が、できあがる映画に映り込んでしまってはいけない。

 私は、これまでの経験から、カメラやマイクとともに気配を消しつつ火花を散らす方法を身につけてきた気になっていたので、今回も最大限それを生かすつもりだった。だが、それはなかなか困難なことだった。

 たとえば、からむし生産のなかで最高の勘所のひとつは糸績みである。そこでは、身体の奥底から湧出する全エネルギーを、手のなかの1本の繊維に集中させるため、沈黙の時空に支配される。かかわっている人びとからは、そんなおおげさな、と笑われるかもしれない。手練れの域に達すれば、テレビやラジオが点いていても、おしゃべりをしながらでもできるそうだ。それでも、集中力が高まることのよろこびが得られる作業なのであろうと想像した。そうしたところを凝視されるのである。加えて、どうしても物々しくなってしまう撮影・録音機材を携え、個人宅のような親密な空間で気配を消すことは困難で、被撮影者には負担や緊張を強いることになる。せっかくの集中の妨げにもなりかねない。映画のなかで五十嵐良(いがらし りょう)さんは、地機への掛糸かけのシーンで「やっぱり撮影なんていわれっと緊張しちまって。」とつぶやく。

 一方、次に述べることは、時として、撮影者と機材が存在するからこそ起きる出来事かもしれない。五十嵐善信(いがらし よしのぶ)さんのからむし焼きのシーンに労働歌のカットがある。現場で一節だけ出たその歌声を、私は決して逸しなかった。焼いた直後の畑に放水し消火する、重要で繊細な作業がある。それは、エンジン式の給水ポンプが回りっぱなしの轟音のなかで行われ、録音条件としてはとても過酷なものだった。放水が止み、女性たちによる施肥作業が始まってからは、打って変わり静寂が訪れた。それまで放水に精を出していた善信さんは小休止。女性たちとの談笑も交わされるそのとき、唄が出た。カメラとマイクに全神経を集中させ、名調子の一節をすくいとった。自分の中で火花が散った瞬間だった。そのあとすぐ、ワラ敷きの作業では、再びエンジンの轟音とともに放水が始まった。

 善信さんは、「だいもちひき」の唄の名手だと聴いていた。「だいもちひき」は、諏訪の御柱祭や伊勢の遷宮の御木曳(おきひき)と同様の行事で、家屋や神社仏閣、橋や堤防などの土木建材にするための丸太を奥山から切り出し、それを里まで曳いてくる労働が行事化したものである。彼はその木遣り唄の名手であった。

 その前の冬、初めてお宅にうかがった際に、私はどうしてもその唄を録音したく、機材を持参して座右に置いていた。こたつにあたりながらしばらくお話しをうかがうなか、話の流れで木遣り唄のことになると、こちらの録音態勢がままならないタイミングで、唄は始まってしまった。

 機材は準備してあったものの、相手に威圧感を与えたり催促しているような感じを悟られてはならぬと、即座に対応できるような録音態勢はとっていなかったのだ。マイクを向けイヤフォンを掛けレコーダーの録音ボタンを押してレヴェル調整をしているあいだの歌い始めの部分は、案の定うまく録れていなかった。再生してみると、定位が定まらず、マイクとレコーダを繋ぐケーブルのタッチノイズが入り、慌てているのがしっかりと記録されている。痛恨の極みである。歌い始めが肝要なので、そのあとは比較的うまくいっている分、心残りだ。もう一度、と何度か懇願したが、「声が出ねえなぁ。よく唄ってた頃は、こんなんじゃねえけんども。勘弁してくれ。」といわれ、寒い時分での歌唱は身体的にも負担が大きいだろうし、無理をお願いするわけには行かないと判断し、そのときは終わりにした。私は「これはリハーサルだから、また今度、気候が暖かくなったら、本番をちゃんと録らせてくださいね!」と頼んだが、そのあと取材で何度かお目にかかる機会がありながらも、「だいもちひき」の木遣り唄のリクエストは、遠慮したまま時をやりすごしてしまった。

 食い下がる私を覚えてくれていたのかどうかは分からないが、善信さんは、ようやく暖かくなってきた5月小満(しょうまん:二十四節気のひとつ)のからむし焼きの畑で一節唄って、カメラとマイクを向ける私たちにめいっぱいのサーヴィスをしてくださったのだと思う。制作者冥利に尽きる想いである。からむし焼きでの姿は映画のシーンに見られるとおり、かくしゃくたるもので楽しそうだった。

 からむし焼きの作業は、そもそも見せ物ではないし、かつては、他家のやり方を盗み見てでも良いからむしを作ってやろうという考えもあったことから、軽々に他人様に見せるようなものではなかった。小満の頃としながらも、それぞれの畑の生育具合を見ながら1日ずつ前後させるなど、むしろ密かに行うこともあった、とも聴いた。だが、後継者不足の点からしても風前の灯火となってしまい、からむし生産という無形文化が途絶する直前の機会での映画制作であることをご了承なさり、撮影にご協力くださった。その上での出来事だったのである。

 小満が過ぎ、初夏を迎える時季、村ではハルゼミの鳴き声に彩られたサウンドスケープが私たちを楽しませる。ウグイスなどの野鳥とあいまって木立や山々に幾重にも重なって響き渡り、サウンドスケープは一層奥深くなる。

 ハルゼミの鳴き声は「ミョーキン、ミョーキン」と聞こえるから、村での愛称は「ミョーキン」である。私には、「ミョーケン」とも聞こえ、「妙見菩薩」を連想したことからの発想かもしれないが、私はいつからか、昭和村の人びとの心性における「暇な神」の存在を考えていた。

 「暇な神」とは、宗教学者のミルチア・エリアーデが著作『太陽と天空神』にて提唱した天空神のことである。直接ないし間接的に宇宙を創造した天上の至高存在として、世界中の神話に普遍的に見られる神格である。しかし多くの場合、天空神は宇宙の創造以外には積極的な役割を果たさない。人間の生活と関わりを持つことも少ない、とされるので、至高の存在として知られながらも、礼拝を捧げられることが少ない。したがって、天空神の性質は「暇な神」(デウス・オティオースス)といわれる。

 日本神話において最初に登場するカミ、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)や、現在のバリ=ヒンドゥーで唯一の超越的至高存在として信奉される「イダ・サンヒャン・ウィディ・ワサ」も、「暇な神」の一種といえるであろう。

 天之御中主神は、平安時代の『延喜式神名帳』には祀る神社の名は記載されておらず、信仰の形跡は確認できない。このカミが一般の信仰の対象になったのは、近世において「天」の中央のカミということから北極星の神格化である「妙見菩薩」と習合されるようになってからと考えられている。バリ=ヒンドゥーの「イダ・サンヒャン・ウィディ・ワサ」もまた、太陽の神格であるスリヤのさらなる至高存在として、ほかの神々とともに習合された形である。

 しかし、人間は日常的な生活と直接の関係を持たない超越的、抽象的な「聖」への信仰を持続することはできない。そのため日常生活においては、天のヒエロファニー(神聖性の顕現)は次第に忘却されて行くのである。再び超越的な天のヒエロファニーが人びとによって想起されるのは、日常的な生活が破壊された異常事態においてである。このことから、カミは暇なほど、日常は安定し平穏無事であると考えることができる。

 昭和村でからむしにかかわっているの人びとから、「むかしは、(からむしが)良く育ちますようにとか、糸づくりや織りが上達しますようにと、カミさまホトケさまをよく信じていた。」というような言葉を聴くことはあっても、現在、からむしにまつわることで、カミやホトケをことさら、熱心に拝んでいる様子がうかがえない。かつては「オミドジョウ」(織り終わりの布の端)を祠や観音堂等に奉納し、無事織り終わったことを神仏に感謝するならわしがあった。現在でもみられるが、稀な行為だという。そもそも、からむしにまつわる信仰や信心があるのであれば「からむし神社」や「からむし寺」があっても良さそうなものなのに、皆無に等しい。皆無に等しいというわけは、わずかながら形跡があるからだ。菅家博昭さんは『【別冊】会津学 vol.1 暮らしと繊維植物』(会津学研究会、奥会津書房/2018年)のなかで青麻大権現(あおそ だいごんげん)のことについて記している。

 「からむし、つまり、青麻を祀ったカミが、近世・江戸時代に出てくる。宮城県内で流行し、会津にも数ヶ所みられる。(中略)昭和村では、下中津川に青麻神社の石祠があり、1811(文化8)年に建造したものである。チュウキ(脳血管障害による後遺症で半身不随となる病)の予防・治癒のカミサマのほか、機織りのカミということも言われているようである。」

 現在その石祠に参拝する者は、ほとんどいないようだ。からむし生産にかかわる人びとにとっては、カミもホトケもなく、手のなかのからむしと一心不乱に対峙し、「今年の分」として完成させ、出荷する。そのことだけに集中している。身の丈に合った暮らしのための生産活動は、それ自体が祈りにも似て、尊い。人びとが声にする「じねんと、な。」は、そのようなことにも表れている。そこには、カミやホトケが介入する余地はないのかもしれない。

 からむしという野生そのものに、人間ができうる限りの手入れをほどこし、その結果として、わずかばかりその恩恵にあずかる。強くしなやかな、まるでからむしそのもののような昭和村の人びとの暮らしぶりから、人間の迫力が神仏の霊力に勝ることを学んだ気がする。人間は不安や災厄を祓い、幸せを得ようと、時にカミにすがりつく。だが、カミが暇な世界にも、幸せは確かにある。それをつかむのは、人間の手と矜持に他ならない。

からむしのこえ

photo: Daisuke Bundo

プロフィール


分藤大翼(ぶんどう だいすけ)

映像人類学者、信州大学准教授

1972年大阪府生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。1996年よりカメルーン共和国の熱帯雨林地域に暮らすBaka(バカ)という狩猟採集民の調査研究を行なう。2002年より調査集落において記録映画の制作を開始。主な映像作品は『Wo a bele ―もりのなか―』(2005)、『Jengi』(2008)、『jo joko』(2012)、『cassette tape』(2013)。作品はいずれも国内外の映画祭で上映されている。『jo joko』は2013年にセルビア共和国で開催された第22回国際民族学映画祭においてUNESCO南東ヨーロッパ無形文化財保護地域センター特別賞を、2017年にフランスで開催された映画祭Les Rencontres du cinéma documentaireで観客賞を受賞している。『からむしのこえ』(2019年)は国内で制作した最初の作品である。主な共著は『森と人の共存世界』(京都大学学術出版会)、『見る、撮る、魅せるアジア・アフリカ! ―映像人類学の新地平―』(新宿書房)、『フィールド映像術』(古今書院)。『Lexicon 現代人類学』(以文社)他。

春日 聡(かすが あきら)

映像人類学者、音文化研究者、映像・音響作家、国立歴史民俗博物館客員准教授

1970年神奈川県生まれ。多摩美術大学美術学部および同美術研究科修士課程にて、日本古来から伝承され近代化した鍛金技法を習得。東京藝術大学美術研究科先端芸術表現領域博士後期課程にて、映像民族誌・宗教人類学を研究。博士論文『《陶酔のテクノロジー》 ―バリ島の祭祀儀礼を中心とした音の民族誌の視座から―』および、記録映像作品『スカラ=ニスカラ ―バリの音と陶酔の共鳴―』により、博士号(美術)を取得(2011年)。
1990年よりこれまで、日本列島各地、バリ島を中心としたインドネシア各地、ネパールなどでフィールドワークを実施。祭祀儀礼や祝祭空間における「可視性、不可視性」や「超越性」をテーマに、民族誌映像とフィールド・レコーディングの可能性を追求しながら、各地特有の無形文化をとりまく歴史的変容と地域的差異を考察するとともに、国際的な比較文化研究をおこなう。奈良県立万葉文化館共同研究の成果を『日本列島の古代における音の超越性 ―祭祀儀礼と神事芸能の諸相から―』(「万葉古代学研究年報 第14号」所収、2016年)として刊行。近著「細男の比較芸能研究 ―おん祭り・アジア南部・九州北部―」(『特集 東アジアの芸能 ―型に現れる永遠・宇宙― 東アジア比較文化研究』18、東アジア比較文化国際会議日本支部、2019年)、「祭祀芸能を記録する ―民族誌映像における音の考察」(『年刊藝能』第25号、藝能学会、2019年)。

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