からむしについて


からむしのこえ

photo: Daisuke Bundo

からむし(Boehmeria nivea var. nipononivea)はイラクサ科の多年草で、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)とも呼ばれる。国内のからむしは中国大陸から伝わったとされており、縄文時代から利用されていたことが分かっている。
昭和村のからむし栽培は、水はけの良い肥えた畑に、根から取り出した苗を植えるところから始まる。3年目以降、からむしは5月から7月にかけて2メートル近くにまで成長する。刈り取ったからむしの葉を落とし、茎の表皮と内側の木質部を取り除くことで、その間の靭皮(じんぴ)から繊維をとることができる。その繊維は、丈夫なうえに吸水性が高く乾きやすい性質を持っており、衣類や工芸品の素材として利用されている。

昭和村について


からむしのこえ

photo: Daisuke Bundo

昭和村は福島県西部の会津地方に位置する。1000メートル級の山々に囲まれており、村の面積の8割はブナ林(落葉広葉樹林)となっている。また、冬期の積雪は2メートルに達することもあり、特別豪雪地帯に指定されている。野尻川・玉川・滝谷川の流域、標高400~800メートルの平坦地に10の集落があり、人口は1264人(2019年8月1日現在)。高齢化率が50パーセントをこえる過疎地域でもある。基幹産業は農業で、夏期の冷涼な気候に適したカスミソウの栽培は、夏秋期の栽培面積において全国1位の規模となっている。

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昭和村のからむし栽培


からむしのこえ

photo: Daisuke Bundo

昭和村のからむし栽培について、文書によって確認することができる最古のものは、1756年(江戸時代中頃)に記された「中向からむし・青苧畑証文」(福島県立博物館蔵)である。また、1858年に記された『青苧仕法書上』(喜多方市立図書館所蔵)からは、当時の栽培方法が現在のものと大きく変わらないことがうかがえる。つまり昭和村では、この160年に渡って栽培の方法が受け継がれてきたといえる。
戦前における養蚕の盛況、戦後の食糧難に応じた食料栽培への転換といった時期を経て、化学繊維の普及と着物需要の減少にともなって、からむしの栽培は下火になってゆく。このような状況を受けて、1971年に生産技術の保存を目的に「昭和村農業協同組合からむし生産部会」が設立され、1981年には「からむし織技術保存会」が作られる。そして、1986年には第1回からむしフェアが開催され(2019年に第34回が開催)、この年から1988年にかけて、民族文化映像研究所による記録映画『からむしと麻』が制作される。
1985年にいたる20年の間に、からむしの生産高が四分の一にまで落ち込んだことを受けて、1990年に「昭和村からむし生産技術保存協会」が発足。1991年に「からむし生産・苧引き」が選定保存技術に選定される。こうして昭和村は、今日に至るまで小千谷縮・越後上布(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産)の原材料を提供し続けている。また、1994年に始まった「からむし織体験生」事業をはじめ、独自の取り組みを重ねており、近年では2017年に経済産業省から「伝統的工芸品」として指定を受けるなど高く評価されている。

「からむし織体験生『織姫・彦星』」事業


全国から希望者を募り、昭和村の暮らしとからむし文化を体験的に学んでもらうことで、村内外において、からむしの知名度を上げることを目的として、1994年に「からむし織体験生」事業が始まった。毎年数名の体験生を募り、1年間の生活を補助しつつ、栽培から織にいたる工程と四季折々の村の生活を学ぶ。修了後、さらにからむしについて学び、技術を高めたい人には、最長3年のあいだ手当が支給される「からむし織研修生制度」が設けられている。2019年に26期生を迎えている本事業を通じて、これまでに通算120名ほどの修了生が誕生し、そのうちの30名ほどが現在も村に滞在している。「織姫・彦星」と呼ばれる人々のおかげで、村の内外の人々の認識や、からむし文化の状況は「変わった」と言われている。村内外の変化を、これからどのように繋いでいくのかが課題となっている。

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からむし栽培・織の作業工程の概略


からむしのこえ

[参考文献]

  • 『苧 博物館シリーズ1』 菅家博昭、大久保裕美著/からむし工芸博物館/2001年
  • 『苧からむし』 菅家博昭著/農産漁村文化協会/2018年
  • 『別冊 会津学 暮らしと繊維植物』 菅家博昭著/奥会津書房/2018年
  • 『からむし栽培の手引き 副読本』 舟木由貴子、塩谷奈津紀、吉田有子著/昭和村からむし生産技術保存協会/2016年
  • 『昭和村のからむしはなぜ美しい からむし畑 博物館シリーズ14』 平田尚子著/からむし工芸博物館/2011年
  • 『ハタの廸』 大久保裕美著/昭和村からむし織後継者育成事業実行委員会/2004年
  • 『からむしの学校』 昭和村総務課企画係/2014年
昭和村の少女

「母の糸績みをまねる昭和村の少女
(当時まだ二歳の誕生日を迎える前だった。ある織姫さんの娘さんである。)」
photo: Takashi Kurata、2014年

昭和村のものづくりの未来像

鞍田 崇(哲学者、明治大学准教授)

「つまり、全くかけ離れた遠い異文化のように見えるかもしれないが、君たちの両親や祖父母にとっては当たり前の暮らしの風景に過ぎない。それは切れているように見えるかもしれないが、実は君たちの内部に繋がり、あるいは内に流れているものに違いない。そういう意味で、外なる異文化ではなく、内なる異文化であるという視点がとても大切なんじゃないか、と。」

赤坂憲雄

(特別座談会「会津から拓く学びの庭」、
『会津学』vol.1、2005年)

昭和村のものづくりの未来像。

このたびのフォーラムに登壇させていただくことになり、そんなテーマをいただきました。あらためて何を話そうかと考えるなかで、この中にある「未来像」という言葉にひっかかってしまいました。僕なんかが、わかったような顔をして未来について語るよりも、村の方々の協力のもと、分藤大翼さんと春日聡さんの手により映像『からむしのこえ』として留められた昭和村の現在の姿から、ご覧になられたみなさんがそれぞれに「これから」を思い描いていただくのがイチバンではないか、というふうに思われて。

といって、逃げ口上を打とうというのではありません。そうではなく、このたびの映像記録のいちばん大事な点は、決して答えではなく、問いを喚起することにあるというところに思いを致していただきたいのです。

そもそも昭和村のからむしが問いをはらんだいとなみです。昭和村のからむしにはいまだゴールが見えていません。

もちろん現在にいたるまでに昭和村では、からむしに関してさまざまな試みが模索されてきました。およそ半世紀前にさかのぼる「昭和村農業協同組合からむし生産部会」の設立以降に限ってみても、過疎対策としての織物産業化への取り組み、歴史的・文化的価値の検証と文化財指定、国選定保存技術としての体制づくり、織姫制度の導入、からむし工芸博物館・織姫交流館の設置、伝統的工芸品指定等、実に多くのアクションが次々と手がけられてきました。でも、その間、厳しい現状を打破することはありませんでした。ゴールなんて一度たりとも見えたことなどなかったとすら言えるかもしれません。にもかかわらず、その取り組みは倦むことなく継承されてきました。なぜなのでしょうか。

なぜ昭和村では(あえて言わせていただくなら)ゴールのないからむしを絶やすことなく受け継ぎ、いまなお多くの努力がそのために払われているのでしょうか。それこそ安易に答えを出すのは憚られます。が、あえて言います。ゴールがないからこそ、からむしのいとなみは受け継がれ続けてきたのだ、と。

昭和村のからむしにおいては、ゴールに至ることよりも、プロセスが肝要です。ただひたすらに。もちろん、個々の生産者の方々のいとなみに関して言えば、少しでもよい繊維を、少しでもよい糸を、少しでもよい織りをという目標があってこそのいとなみではあるでしょう。また、最高級の織物である越後上布・小千谷縮のための原料生産という使命感もあるでしょう。しかしながら、決して誰も安易にゴールに行こうとはしない。行けるなんて思ってもいない。でも、ゴールに行けないから意味がないなんてことはまるでなく、ひとつひとつのプロセス、そこでの時間の充実こそが、からむしに携わるひとびとを励まし、勇気づけ、彼らに他のなにものにも代えがたい誇りとやりがいをもたらしているのではないでしょうか。

「からむしだけはなくすなよ」、「からむしだけは絶やすなよ」。映像『からむしのこえ』の冒頭にあるフレーズです。昭和村のからむしについて、村の方々が親から子へ、子から孫へと言い慣わしてきたとされる、これらのフレーズに託された思いの深さ。すべてはここに言い尽くされているように思われます。儲かるからとか、名誉であるからとか、歴史があるからとか、何かそういうわかりやすい理由で説明できるものではない。ただひたすらに、プロセスとして、「からむしだけはなくすなよ」。

顧みれば、逆に、現代社会に生きる僕たちはつねにゴールに取り囲まれています。なかでも商品というゴールに。なんの不便もありません。インターネットの普及により、ワンクリックするだけで、自分の部屋から出ずとも商品を入手できます。本でも、衣服でも、食べものでも、電化製品でも、何でも。そうしてなんら不自由なく生きていくことができます。便利です。商品だけじゃない、情報というゴールもあります。わからないことがあれば、すぐにネットで検索できる。検索すれば、それらしい答えを見つけることができる。SNSで発信すれば、すぐに「いいね!」のリアクションがある。あっという間にゴールにたどりつける。なにも難しいことはない。そういう状態にすっかり慣れきってしまっています。

でもそうした生活を過ごすなかで、何かが足りないという気分が募ってくる。

足りないのは体験です。生活を自らいとなんでいるという体験。生きているという実感をもたらす体験。あるいはリアリティと言ってもいいのかもしれません。明らかにいまここに存在しているのに、どこかすべてが他人事のよう。リアルじゃない。ゴールだけの生活では、じつは満たされないのが人間です。

個々人の生活のあり方だけの問題ではありません。1990年代初頭以降、日本社会は「ポスト工業化社会(脱工業化社会)」となりました。ありていにいえば、もはや生産・製造業は社会の主役ではない。主役は流通であり、サービス業です。ますます効率化が図られる中で、買い物のあり方も変わりました。個人商店は閉じられ、代わって大規模スーパーかコンビニでするものとなりました。ものづくりはもとより、専門的な仕事のいとなみにふれる機会はすっかり減りました。目にするのは、ただただゴールの集積ばかり。気がつくと、いまでは社会もまた、どこかリアリティが希薄で、よそよそしくすらあります。

生活も社会もそのような状況にあるなかで、昭和村のからむしは、僕たちにプロセスをないがしろにしないからこそのリアリティを思い出させてくれます。ただ、ここで気をつけなければいけないのは、昭和村とて決してパーフェクトではないということです。現実のからむしをめぐる村の取り組みは、世間的なゴール追求の傾向に即すような側面もあったでしょう。20世紀という時代はこの山村をもすでに激変させてしまいました。

しかしながら、ともするとそのまま袋小路に陥りかねなかった昭和村のからむしがそうならなかった。なぜか。そこに人がいたからです。「からむしだけはなくすなよ」を耳にして育った村の方々がいたからです。さらには、四半世紀前に導入された織姫制度のもと、村にやってきた多くの「織姫さん」たちがいたからです。彼ら彼女らの、いや、からむしに直接携わることのない人たちも含めて、ここで暮らす人々のひたむきな姿勢があればこその昭和村のからむしでした。

であるがゆえに、昭和村という空間、そこで暮らすひとたちのほんの些細な仕草からさえも、きっとみなさん自身の中に潜んでいる何かを見出せるはずだと思うのです。そうして、昭和村のからむし、その未来を考えることは、私たちひとりひとりのこれからを考えることにつながってくると思うのです。

答えではなく、問いを喚起することが大事といいながら、しゃべりすぎてしまったようです。ここに記したことは、あくまで僕の個人的な見解。映像『からむしのこえ』を通して喚起される問いの内容は、みなさんひとりひとりが抱かれるままに、様々であってよいと思います。なかなか言葉にしがたく、問いというよりも、ただ心がモヤモヤとするとしか言えないという人もいるかもしれません。それでも全然かまいません。そのモヤモヤの先にはきっと、探られるべき未来があるはずです。

*この文章は、映画「からむしのこえ」完成記念として開催された歴博フォーラム14(国立歴史民俗博物館、2019年10月19日)のパンフレットに寄稿したものです。

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